2011年5月31日火曜日
シート「奥尻のその時と現在から学ぶ」ver.02を北海道大学建築計画学研究室のHPにアップいたしました。
2011年5月27日金曜日
第二回奥尻出張に行って参りました
住民の方々から直接お話を伺うことで、震災当時から現在の奥尻の様子について、資料作成の段階では想像していなかったようなことをたくさん教えていただきました。
今回の訪問もふまえ、シートのバージョンアップにも取り掛かります。
2011年5月24日火曜日
シート「奥尻のその時と現在から学ぶ」ver.01を北海道大学建築計画学研究室のHPにアップいたしました。
2011年5月23日月曜日
石巻でボランティアに参加しました。
けんちく隊の活動とは別で、石巻市にボランティアに行ってきました。
個人的な活動ではありますが、この場をお借りして報告をさせて頂きます。
石巻はボランティアの受入れが、非常に進んでいると言われています。
私は渡波地区を中心に活動しているボランティアに参加することにしました。
仙台で石巻行きのバスに乗り換え、渋滞の高速道路を二時間揺られ石巻に。
そこからさらにバスを乗り換え、渡波小学校に向かいました。
石巻駅を出発してすぐ、津波の被害が見受けられ、海岸に向かってバスが進むに連れ、被害の甚大さに唖然としました。
テレビや新聞ではある一部分の被害の状況を切り取っていますが、現地ではその風景がずっと続いていました。
そしてそれが石巻だけではなく、太平洋岸に何百キロと続いてるという事実を改めて実感しました。
私が担当した主な作業は瓦礫と家に入り込んだヘドロの撤去です。
数人のチームでお宅に訪問し、休憩をはさみながら、仕分けや積み出しをします。
明確には目標は決めず、その日の出来る範囲のことをする。
仕事と違うので、効率を重視したものではなく(実は、これが一番難しいんです!)、
安全を第一に、出来る限り地元の方々とコミュニケーションをとりながら作業をしました。
その日の自分の作業を振り返り、
大きな大きな被害に対する、小さな小さな一歩の集合が、
これからも続くことを祈りながら眠りました。
行くまでは、ボランティアとして活動する自分自身の、心と体の健康状態が保てるのか不安でしたが、そんな不安はどこかに吹き飛びました。
地震が起きてから、北海道や東京でニュースを見て、現地を想い何度も涙していました。
でも現地では、涙は一切出ません。
そこにはただ被害を受けた現実があり、涙を流すことより出来ることが、目の前に山積みになっています。
この二ヶ月で、石巻の方々は明るくなったといいます。
しかし、いまだ、女川や牡鹿半島には、ボランティアが入れる状況でさえないと聞きました。
被害の大きさと、自分の小ささと、長期的な支援必要性を感じ、
再度ボランティアに来たい思うと同時に、出来る場所から出来ることを継続しようと感じました。
2011年5月20日金曜日
奥尻に行ってきました
5月18・19日に一泊二日で第一回奥尻島調査に行ってまいりました。
19日には一日かけて町役場の方に島全体を案内していただきました。
まず、午前中に当時復興計画に関わった職員の方からお話をいただきました。そこでは、当時取った対策と、今回の東日本大震災についてお話しいただきました。
まず、被災した地区の今後の身の振り方として、集団移転をするか否かの議論が上がりました。当時は、住民の意向を把握し、合意を形成するために、役場の担当の方が、避難所や仮設住宅一軒一軒訪問し、住民の方とのコミュニケーションを図ったようです。その結果、岬地区ではほぼ全住民が集団移転に賛成したとのことでした。ただ、集団移転の場所を決める際、地主の方とそれ以外の住民の方との格差や既存コミュニティと移転先との関係などの議論があったそうです。
被災から5年の間は復興景気に沸いたようですが、その後、過疎化や観光産業の落ち込みが進行していきました。
5年後、奥尻島は復興宣言をしましたが、震災当時2歳だった子供が大人になるまでの、学費などにあてていた人材育成基金の終了や、青苗港の人工地盤(望海橋)の完成が去年であったことを踏まえると、最近まで復興は続いていたと言えます。
震災当時はバブル崩壊後でしたが、好景気の余韻で政府からの事業費や多額の義援金が集まったこと、また政治的背景から、閣議決定も迅速で、対策がトップダウン式に進んだため、仮設住宅での生活でも将来への見通しがある程度明確で復興への気運が失われなかったようです。
その点で、今回の東日本大震災と状況が異なるといえます。
午後からは島全体を案内していただきました。
いちばん被害の大きかった青苗地区を主に視察したのですが、そこでは、集団移転後、ミニ開発的な様相となった高台の集落や、当時避難所であった中学校を訪れました。昔のコミュニティの方々と疎遠になってしまったり、現在の子供たちは、津波の本当の恐ろしさを知らないといった危惧もあるため、学校での教育にも力を入れているようです。
湯浜地区では、仮設住宅跡地や、被災者用に建設された道営住宅を視察しました。
奥尻地区では土砂崩れにより、ホテルが被害を受け観光客が巻き込まれたことから、慰霊碑が建てられていました。
海岸沿いの道路には、ところどころに当時の津波の高さを示す看板が立てられています。
実際に奥尻島を訪れることで、公式資料に載らないような貴重なお話や、現場を目の当たりにするという、体験をさせていただきました。
今回は短い間でしたが密度の高い調査になりました。来週再度奥尻島を訪れ、より一層知識を深めようと思います。
2011年5月18日水曜日
北海道南西沖地震の復興経験共有化プロジェクトスタート
本日5月18日、19日 けんちく隊メンバーの北海道大学建築計画研究室を中心とした第一回奥尻島調査が行われます。
目的は東日本大震災被災地、被災者に向けて、北海道南西沖地震の復興経験情報を提供するためです。ご存じのように1993年の北海道南西沖地震で発生した津波は北海道奥尻郡奥尻島を襲いました。
それから約18年、奥尻島が遂げてきた復興の過程を集落、生活、産業、インフラなどの様々な角度から伝えることは東日本大震災の被災地が復興に立ち向かうための大きな支えとなるのではないかと考えました。
先週、建築学会の視察に参加した建築隊のメンバーからは、いまだ被災地では復興のための情報が少なく混乱しているとの報告がありました。国、自治体が懸命に計画を策定していますが、被災者に直接届く情報は非常に限られているようです。しかし、集落移転の是非を問う住民アンケートの締め切りが迫っている自治体もあるようで、住民の皆さんは少ない情報の中決断を迫られているとの報告もありました。
そこで、けんちく隊では今回の奥尻調査を踏まえ”一目でわかる被害復興情報シート”を作成し、ウェブ公開と被災地への配布を考えています。
できれば5月中、できるだけ早い公開を目指しています。
当時の報道、被害調査、法律制定、学術論文の内容から復興情報を整理し、どのような復興過程がどれくらいのスピードで進んでいったかをわかりやすく伝えたいと考えています。
その後はさらなる調査と、奥尻島の経験を生かした復興モデルの提言を行いたいと思っています。
被災地から離れた北海道にいる我々として今できることをできる限り行いたいと思っています。
被災地の皆様、けんちく隊に関心を持っていただいた皆様からも、けんちく隊の活動へのご意見、ご要望を受け付けております。どうぞ気軽にご連絡ください。
上士幌町被災者受け入れプログラム支援 スタート
目的は、上士幌町様が取り組んでいる被災者受け入れプログラムへけんちく隊の協力を申し出るためです。
上士幌町は以前より移住定住支援活動に積極的に取り組んでおられ、北海道の中でも注目されていた自治体です。十勝平野の美しい自然、生活環境をアピールするだけではなく、移住者の様々な要望に個別に対応するホスピタリティーのある移住支援で実績を重ねておられます。
自ら移住を希望される方と、今回の震災で望まずに避難を強いられている方々では、全く性質は異なるものの、すでにソフト、ハードとも受け入れ体制が整備されている上士幌町さんは、他の自治体にはない細やかな被災者受け入れ支援ができる土壌があります。
実際に上士幌町さんは震災後いち早く受け入れを表明し、お試し温泉滞在、住居、生活用品、就職支援など様々な受け入れプログラム、サポート体制を用意しておられます。
上士幌町役場被災者支援情報
二地域居住・移住定住情報
移住ドッドコム
けんちく隊としては、上士幌町さんの被災者受け入れプログラムをバックアップし、さらなる体制の強化を図ることで、北海道、さらに全国の自治体が行っている被災者受け入れプログラムのモデルを示したいと考えています。今後検討していく主な内容は以下の通りです。
- 住居と就労・起業、子育て教育環境などの生活環境パッケージ化
- さらなる支援として上士幌町様が用意している廃校や町営住宅、農地などのストック活用提案
- 大学、学生を中心とした支援プログラムの学術的検証やワークショップの開催
- 受け入れ支援プログラム情報公開
また、NPO法人 上士幌コンシェルジュ 川村様の案内で上士幌町にあるおためし暮らし用モデル住宅も見学しました。
贅沢な眺めに一同溜息。居住性もよさそうです。同じ北海道に住む我々でもうらやましいです。
通常は移住を検討している方がお試し暮らしをするための住宅ですが、現在は被災者の一時避難のためにも提供されています。
上士幌町の雄大な自然、人々の温かな心遣いで一人でも被災者の方の心と体が癒されることを願っています。
某コーヒーメーカーCMにでているツリーハウスを発見。ナイタイ高原レストハウスへ向かう途中です。
雄大な自然が本当に美しい町でした。